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ねこと写真がすきです

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晩秋の富士 写真とは何なのか

どうも、からなしです。

秋の写真を撮影しに行ったので撮影記を書きたいと思います。

また、最近考えている写真との距離感についても書いていければなと思います。

今回残した5枚について

写真を撮りに行った場所はいずれも富士山周辺になります。数は5枚と決して多くはありませんが、どれも「切った瞬間の感覚」がそのまま残っている気がしています。

 

いい写真を撮ろうというより、

 

「今日はこう見えているな」

「この距離感は今日だけだな」

その感覚をただ写しただけに近いです。

 

完成度を意識するというより、見えた世界を一度置いておくような感覚。そのくらいの距離感でシャッターを切ってました。

コブハクチョウと水面

仕事が終わって夜通し運転して、朝早くに着いたので肌寒さと眠気でいっぱいでした。

それでも、水面の上には紅葉が映っていて、

水面には魚も泳いでいて、

ハクチョウはそれらと同じ空間の一部として存在していました。

撮ったときに何か意味を与えたわけではありませんが、ちゃんと時間の重さみたいなものは残っている気がします。

富士山と紅葉の重なり

富士山と紅葉は、言ってしまえば王道の組み合わせになります。

でも、その王道も毎回違った表情をしているんですね。

黄色く色づいた葉、透過光のある葉、ない葉。

それぞれの色が混ざり合って、その日の空気と光で、富士山の見え方も変わります。

 

ちなみに私は、富士山は単なる山ではなくて記号だと捉えています。集団記憶の中にある”日本という概念の象徴”。だから画面の占有率と心理的重量が全く比例しない。

 

だったら、大きくしすぎないことで想起させるというアプローチを考えました。

 

紅葉も普段見るようなスケール感より少し大きくして前景に持ってくることで、富士山という記号と紅葉という物質が対話できる位置関係にしました。

 

このバランス感が自分らしさなのかなと思います。

彩度はマシマシじゃありませんが思想はマシマシです。

 

こちらも似たような構図ですが、赤い紅葉の暖簾の間から富士山が顔を出しているイメージです。紅葉の大きさだけでも、かなり印象って変わりますよね。面白いです。

沼津から見た富士山

沼津から見る富士山は少し遠くなって、存在感も静かになります。主役というよりは、風景の奥にひっそりと居る感じ。

街の灯り、海の広がり、山の輪郭。

そこに富士山が居ることで全体の空気が静かに締まる。近くで見る富士山とはまた別の意味を持ってそこにいました。

写真は主観であり、主観こそが理由

写真は客観的な記録のように見えて、実際はかなり主観的な行為だと私は思っています。

 

どこに立つか

どこで切り取るか

いつシャッターを切るか

 

それらは全て、自分の「見え方」が決めています。同じ場所にいても、他人と同じ写真になることはありません。

 

だから、写真はただの記録ではなく、「その時、自分にはこう見えた」という証でもあります。

 

決して正解を示すものではなく、世界との接点を残しているだけ。そしてその主観こそが写真をやっている理由なんだと思っています。

未完成という選択肢

最近では、完成度を競うフォトコンや、AIによって作られた完璧に綺麗な写真が世に溢れています。でも、自分はそこに強く寄せたいとは思っていません。

 

未完成でいい。

むしろ、未完成こそが人間らしい。

 

写真も人生も、綺麗に整った瞬間より、揺れている途中の方がずっとリアルです。

「自分なんて存在は写真の中になくていい」と思いながらシャッターを切っても、どうしても”らしさ”は残る。そこの矛盾も含めて、写真なんだと思います。

 

今回の5枚は、完成された作品ではなくその日の視点の断片であり、時間の痕跡であり、主観の記録です。

 

写真とは何なのか、これからも考え続けると思います。内省の中にしか本当の価値は生まれないと思っているからです。

 

少し概念的な話しが多くて、読みづらかったかもしれませんが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。